「家族がつないだ画家の夢」続編その2
今回は
誰が、どのような過程を経てこの2人の兄弟
フィンセント・ファン・ゴッホとテオの絆や壮絶な人生
そしてゴッホ作品を世の中に広めていったのでしょうか?
順を追ってみていきましょう!

兄フィンセント・ファン・ゴッホを金銭的,精神的に支え
彼の画業を世の中に伝えはじめたのは弟のテオです。
が
テオはフィンセントが亡くなったわずか半年後
34歳で病死しています。
ではいったい誰がこの2人の兄弟の
絆や壮絶な人生、作品を世の中に広めたのでしょうか?
とても疑問に思うところですよね~!
それは
弟テオの妻であったヨーなんです。
フィンセントをプロデュースし世界的人気画家にしたのは
なんと!ひとりの女性だったのです。
それでは大きな貢献を果たした二人の説明から始めましょう~
^_^o .。.:*☆(❁´◡`❁)☆*: .。. o^_^
🍀テオドルス・ファン・ゴッホ

Theo van Gogh
*1882
愛称テオ、1857-1891
兄フィンセント・ファン・ゴッホの弟。
画家になると決意したゴッホを経済的・精神的に支え続けた。
15歳で伯父の紹介により
美術商グーピル商会に勤務。
ハーグ、ロンドン勤務を経て、1879年にパリへ移る。
印象派をはじめとする前衛的な美術にも高い関心をもち
ゴッホの芸術観にも影響を与えた。
弟テオの支援に対してゴッホからはたくさんの作品が贈られた。
作品の数でテオのアパートはあふれかえっていたそうだ😮😮😮
兄ゴッホの死後、回顧展の開催に奔走するが
しだいに体調が悪化し、ゴッホの半年後に死去。
テオの遺産には、数多くのゴッホ作品に加え
兄弟で収集したほかの画家の作品や浮世絵
兄からの多数の手紙が残った。
次に100年後の画家の夢を確実にしたヨーについてです。
^_^o .。.:*☆(❁´◡`❁)☆*: .。. o^_^

🍀ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル
愛称ヨー、1862–1925
ゴッホの義妹。
オランダの中流家庭に生まれる。
オランダで英語教師や翻訳家として働いた後
彼女の兄の友人だったテオのプロポーズを受け結婚。
パリで新婚生活を送りながら、美術への造詣を深めた。
1891年1月のテオの死により帰国。
テオの財産の半分を相続し
このとき1歳に満たなかった息子が
21歳になるまで、彼の相続分も管理していた。
ヨーは親子の生計のためだけでなく
ゴッホの画家としての評価の確立を目的とし
展覧会への貸出に加え、定期的に作品を売却していった。
^_^o .。.:*☆(❁´◡`❁)☆*: .。. o^_^
ゴッホは画家としても世界的に有名になりましたが文才もすぐれていました。
テオはゴッホから届いた手紙を大事にキャビネットに長年しまっていました。
テオが亡くなりヨーが整理していく中でヨ-は「価値のあるものだ」と
確信し「フィンセント・ファン・ゴッホの手紙」と題して
1914年に出版。
出版を機に一般の人からの知名度も高まり
ゴッホの人生や人柄が広く知られるようになりました。
ゴッホとテオの死後ヨーが戦略的に
絵画の売却先を決めていったことも作品の評価を高めていきました。
利益を追い求めるのでなく
ゴッホが近代美術に通じる画家であることを信じ
売り込んでいったのです。
そしてついに
ロンドンのナショナル・ギャラリーに
《ヒマワリ》を迷った末、手放し(1924年)
フィンセントの名声を確固たるものとしました👏👏👏
後にヨーはこのひまわりの絵の売却を「栄光のための犠牲だった」と
記しています😢
南仏アルル時代に描いた幸せな黄色を背景に描いたひまわり。
このひまわりをゴッホは「私の花」と呼び気に入っていて大事にしていました。

ひまわり(Sunflowers)フィンセント・ファン・ゴッホ作
(National Gallery)の43展示室
ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するゴッホの「ひまわり」(1888年)
↓ ↓ ↓

ゴッホの名声を確立したヨーが1925年62歳で亡くなった後
ゴッホの作品群はその息子のウイレムに託されました\(^o^)/💛💛
** 次回 続編その3に続きます **
* 写真はファンゴッホ美術館/東京都美術館のチラシ/Metropoliana
からお借りしアレンジしました(❁´◡`❁)

あなたの自然治癒力・免疫力アップを図る
Holistic Care Salon
Tia’s Balanceオーナーセラピスト
国吉明子です。
東京都文京区でソレンセン式神経反射療法士
テンプラーナ早期介入療法士
鍼灸師として活動しています。









